2007年08月30日
Gackt「謙信公祭」で魅了−上越の地で地震被災者にエール
Gackt「謙信公祭」で魅了−上越の地で地震被災者にエール
2007年8月26日(日)07:42
NHK大河「風林火山」(日曜後8・0)で上杉謙信を演じる歌手、Gackt(年齢非公表)が25日、新潟県上越市の春日山で行われた「謙信公祭」の出陣行列に初参加。白馬にまたがり、さっそうと現れた“本物の謙信”に観客からは大歓声が沸き上がった。
武者に扮した参加者約450人を引き連れ、大河と同じ甲冑(かっちゅう)姿で会場を練り歩くGacktに、沿道からは「カッコいい〜!」と黄色い声。Gacktは先月中旬の新潟県中越沖地震で被災した上越市の人々に、「地震の災いに見舞われし上越の地に上杉謙信まかりこした。みなのもの、勇気を出して立ち上がるのじゃ!」と声を張り上げ、エールを送った。
上杉謙信
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上杉謙信/長尾景虎 凡例
時代 戦国時代
生誕 享禄3年1月21日(1530年2月18日)
死没 天正6年3月13日(1578年4月19日)
改名 虎千代(幼名)。長尾景虎→上杉政虎→輝虎→謙信
別名 平三、宗心
戒名 不識院殿真光謙信
墓所 上杉家廟所、春日山林泉寺、高野山
官位 従五位下、弾正少弼、贈従二位
幕府 室町幕府越後守護代→関東管領
主君 上杉定実(義伯父)→足利義輝
氏族 長尾氏(桓武平氏)→上杉氏(藤原氏)
父母 父:長尾為景、母:虎御前
養父:長尾晴景のち上杉憲政
兄弟 長尾晴景、長尾景康、長尾景房
仙桃院(長尾政景室)、長尾景虎(上杉謙信)
義兄弟:上杉憲藤、上杉憲重、上杉憲景
子 養子:景虎、景勝、上条政繁、山浦国清
織田氏(文書上でのやりとりのみ)
上杉神社内にある上杉謙信像
春日山城上杉 謙信/長尾 景虎(うえすぎ けんしん/ながお かげとら、享禄3年1月21日(1530年2月18日) - 天正6年3月13日(1578年4月19日))は、戦国時代から天正時代の武将・大名。
越後国の守護代を務めた長尾氏に生まれ、後に主君上杉定実の義甥となる。兄の晴景の養子となって長尾氏の家督を継ぎ、上杉憲政から上杉姓と関東管領職を譲られる。周辺の武田晴信(信玄)、北条氏康、織田信長らと合戦を繰り広げた。
自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる。
後世、越後の虎とも越後の龍とも呼ばれる。
室町幕府最後の関東管領でもある。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 家督相続
1.2 川中島の戦いと関東管領補任
1.3 武田信玄・北条氏康との戦い
1.4 越中・関東出兵
1.5 織田信長との戦い
1.6 最期
2 辞世の句
3 人物
4 逸話
5 評価
6 墓所・霊廟
7 家臣
7.1 国人衆
7.2 上杉二十五将
7.3 上杉四天王
7.4 忍
8 関連項目
8.1 小説
8.2 漫画
8.3 ゲーム
8.4 ボードゲーム
[編集] 生涯
[編集] 家督相続
享禄3年(1530年)1月21日、越後守護代長尾為景の四男として春日山城に生まれる。 天文5年(1536年、同11年(1542年)とも)に父の為景が病死したため、家督は兄の長尾晴景が継ぎ、虎千代は城下の林泉寺に入門して住職の天室光育の教えを受ける。天文12年(1543年)8月15日に元服して長尾景虎と名乗り、中越の長尾家領統治のため栃尾城に入る。
当時、越後では守護上杉定実が伊達稙宗の子を養子に迎える件で内乱が起こっており、景虎は元服した同年、病弱な兄の晴景を見て反乱を起こした越後の豪族を討伐することで初陣を飾った。天文15年(1546年)には黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こすと、景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として黒田氏を滅ぼした。
天文17年(1548年)、定実の調停のもと、12月30日、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退する。景虎は長尾氏の本拠である春日山城に入り、19歳で家督を相続し、越後守護代となる。2年後の天文19年(1550年)には、定実が子供を遺さずに死去したため、将軍・足利義輝は景虎の越後国主の地位を認めた。衣料の原料となる青苧を栽培し、日本海ルートで全国に広め、財源とした。
[編集] 川中島の戦いと関東管領補任
天文19年(1550年)、一族の坂戸城主・長尾政景が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こした。しかし景虎は、翌、天文20年(1551年)に鎮圧している。この頃、北条氏康による攻勢を受けていた上野平井城に拠る関東管領の上杉憲政が、越後に対して救援を求めている。景虎はただちに出兵して北条軍を破り、憲政を平井城へ戻した。越後の隣国・上野へ力を伸ばす北条氏は、越後の安全を確保する上でも脅威だったためである。
天文21年(1552年)1月、上杉憲政を越後に迎える。4月23日、従五位下弾正少弼に叙任する。天文22年(1553年)9月、上洛して後奈良天皇や室町幕府第13代将軍・足利義輝に謁見している。
同年、甲斐の武田晴信の信濃侵攻によって領地を追われた村上義清・高梨政頼(景虎の叔父)らの信濃国人が領地復権を望んで景虎のもとへ逃亡してくると、8月にはこれに応じて信濃に出兵し、川中島(長野市南郊)で武田信玄と対峙する(第1次川中島の戦い)。天文23年(1554年)、家臣の北条高広が武田信玄と通じて謀反を起こしたが、天文24年(1555年)には自らが出陣してこれを鎮圧した。4月、信玄と川中島で再び対峙したが(第2次川中島の戦い)、決着はつかず対陣5ヶ月に及び、最終的には駿河の今川義元の仲介のもとに和睦して撤退した。
ところが弘治2年(1556年)6月、出家すると宣言して高野山(一説に比叡山)に向かう。この頃、武田信玄との抗争や、家臣である長尾政景、北条高広、大熊朝秀らの反乱で心身が疲れきっていたとも言われているが、天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念した。弘治3年(1557年)4月、川中島に出陣する(第三次川中島の戦い)。しかし武田軍とは睨み合いに終始し、さらに越中で一向一揆が起こったため、撤退を余儀なくされた。永禄2年(1559年)4月、再度上洛して正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁する。このとき、義輝から管領並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。この頃、義輝は幕臣大舘晴光を派遣して、景虎・信玄・氏康の三者が和睦して三好長慶の勢力を駆逐するために協力するよう説得したが、三者の考え方の溝は大きく実現しなかった。
永禄3年(1560年)3月、越中に出陣し、神保長職を破って椎名康胤を援けた。5月、関東に出陣して厩橋城で越年する。武蔵松山城を攻め落とし、永禄4年(1561年)3月に関東管領上杉憲政を擁して長野業正、小山秀綱、小田氏治、那須資胤、佐竹義重、太田資正、三田綱秀、成田長泰ら旧上杉家家臣団10万の大軍で小田原城を包囲する。しかし落とすことはできず、1ヶ月後に鎌倉に退去した。このとき、上杉憲政の要請もあって鶴岡八幡宮において閏3月16日、山内上杉氏の家督と関東管領職を相続、名を上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改めた。
もともと上杉家は足利宗家の外戚として名門の地位にあり、関東管領職はその縁で代々任じられてきた役職であった。長尾家は上杉家の家臣筋であり、しかも上杉家の本姓が藤原氏なのに対して長尾家は桓武平氏であった。異姓(長尾氏の祖先である平良文の母は藤原氏ではあるが)にして家臣筋の長尾景虎がなぜ上杉氏の名跡を継承するに至ったのか。
かねてから上杉家に養子を招くことを望んでいた上杉憲政が、上杉家から養子を出したことのある佐竹家からの養子を断られ、苦悩の末に越後の実力者である長尾景虎に継がせたと言われる。藩翰譜によると、政虎自身が上杉頼成の男系子孫であるという記述がある。萩原家譜案にも、上杉頼成の男子が長尾氏へ入嗣した旨が記されている。室町時代前期の長尾氏の系図は混乱していて諸説あるが、政虎は上杉家の傍系であったという説も有力である。
帰国後の永禄4年(1561年)8月、1万3000の兵を率いて川中島に出陣する(第4次川中島の戦い)。このとき、武田軍と大決戦に及び、武田軍の武田信繁、山本勘助らを討ち取ったが、上杉軍の死傷者も甚大で、結局痛み分けに終わった。11月、再び関東に出て信玄・氏康と戦う。しかし川中島における軍勢の被害が甚大であり積極的に戦うことができず、成田長泰や佐野昌綱にとどまらず武蔵国の同族上杉憲盛までもが北条方に降る。謙信は上野・武蔵・常陸・下野・下総などで転戦したが、関東における領土は主に東上野にとどまった。12月、将軍義輝の一字を賜り、諱を輝虎(てるとら)と改める。
[編集] 武田信玄・北条氏康との戦い
第四次川中島の戦い武田信玄と北信濃をめぐって川中島の戦いを行うが決着は着かず、結局のところ信濃の北辺の一部を掌握したのみで、村上氏、高梨氏らの旧領を回復することはできなかった。永禄5年(1562年)7月と9月、越中に出陣して椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させた。永禄7年(1564年)にも信玄と川中島で再び対峙した(第5次川中島の戦い)。しかし60日に及ぶ対峙の末に撤退し、決着は着かなかった。
永禄11年(1568年)、越中の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中を制圧するために松倉城・守山城を攻撃したが、5月に信玄と通じた重臣の本庄繁長の謀反のため、越後に戻った。11月、繁長の謀反を鎮圧。12月、武田と断交した今川氏真に救援を懇願される。永禄12年(1569年)には蘆名盛氏の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・本庄顕長を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた出羽の大宝寺義増も謙信に降伏した。
永禄12年(1569年)3月、武田信玄を牽制するため関東管領である輝虎にとっては宿敵である北条氏康と同盟する(越相同盟)。元亀元年(1570年)、氏康の7男である北条三郎氏秀を養子として迎えた輝虎は、三郎のことを大いに気に入って上杉景虎という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇したという。12月には法号「謙信」を称した。
[編集] 越中・関東出兵
元亀2年(1571年)、北条氏康が死去し、後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再び和睦したため、その後両軍と利根川を挟み対陣した。8月、北国に矛先を転じ、越中の一向一揆勢力らと戦い富山城を奪う。11月、大規模に動員した信玄と交戦状態に入った、織田信長の同盟の申し出を受ける。その後越中に出陣したが、信玄に通じて反乱を起こした一向一揆に悩まされ、年末まで一向一揆と戦った末に、これを制圧した。
元亀4年(1573年)、宿敵・武田信玄が病没して武田氏の脅威が薄らぎ、越中の過半を制圧。同年に北条氏政が上野に侵攻、これに対するため天正2年(1574年)、関東に出陣して金山城・騎西城・忍城など関東の諸城を相次いで攻めた。同年12月19日、剃髪して法印大和尚に任ぜられる。天正3年(1575年)1月11日、養子の喜平次顕景の名を景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲った。
[編集] 織田信長との戦い
天正4年(1576年)2月、信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺顕如と講和する。このとき、武田勝頼とも和睦して信長との同盟を破棄し、新たに謙信を盟主とする反信長包囲網を築き上げたのである。
天正4年(1576年)9月、越中に侵攻して一向一揆支配下の富山城、増山城を落とした。次いで椎名康胤の蓮沼城を陥落させ康胤を討ち取り、越中を平定した。11月、能登に進み畠山氏の居城・七尾城を囲んだ(七尾城の戦い)。しかし七尾城は堅城であり、攻めあぐんで越年する。天正5年(1577年)、春日山に一時撤退した。その間に畠山軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は落とされたが、閏7月、再び能登に侵攻し、七尾城を包囲する。このとき、城内で疫病が流行、厭戦気分が蔓延し、9月15日に遊佐続光らが謙信と通じて反乱を起こした。信長と通じていた長続連らは殺され、七尾城は落城し、能登も完全に上杉家の支配下に入った。
一方、長続連の援軍要請を受けていた織田氏は、柴田勝家らの先発隊3万、信長率いる本隊1万8000が加賀に向かっていた。謙信はこれを迎え撃つため、9月17日に末森城を落とし、9月18日には松波城を攻め落とした。9月23日、柴田勝家率いる織田軍は、手取川を渡河したところでようやく七尾城の陥落を知った。慌てた勝家は撤退命令を出したが、謙信は渡河に手間取る織田軍を追撃して大勝したとされる(手取川の戦い)。
[編集] 最期
天正5年(1577年)12月18日、謙信は春日山城に帰還し、12月23日には次なる遠征に向けての大動員令を発した。天正6年(1578年)3月15日に遠征を開始する予定だったらしい。しかしその6日前である3月9日、遠征の準備中に春日山城で倒れ、天正6年(1578年)3月13日、急死した。享年49。
未遂に終わった遠征では上洛して織田信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたとも言われているが、詳細は不明(近年の研究では関東侵攻説が有力になりつつある)。『その時歴史が動いた』(NHK)では、「関東侵攻後、信長を打倒し京へ上洛」が有力説とし、放映された(2007年4月4日放送)。
[編集] 辞世の句
「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」
「四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒」(「嗚呼 柳緑 花紅」と続く史料もある)
[編集] 人物
生まれつきのカリスマ性を持ち、兄から呼びもどされて元服すると長尾家家臣だけでなく、豪族達の心もつかんだとされている。
自らを毘沙門天の化身と称したり天罰と信じて戦を行なう、短気であるなど、エキセントリックで苛烈な一面がある一方で、よく涙を流す、自信喪失したり情緒不安定に陥るなど、戦国大名らしからぬほど非常に繊細でナイーブな面もあったようだ。また、養子の上杉景勝に頻繁に手紙を送ったり呼び寄せたり(景勝は正式に養子になる以前は父・政景の居城である上田城にいたことが多かった)する子煩悩な一面もある。
戦略家・戦術家としてだけではなく、和歌に通じ、達筆でもあり、近衛稙家から和歌の奥義を伝授されるなど、公家との交流も深い文化人でもあった。特に源氏物語を始めとする恋愛物を好んで読んでおり、上洛した際に開催した歌会でも見事な雅歌(恋歌)を読み、参加者全員を驚かせたと言う。琵琶を奏でる趣味もあった。
七尾城の戦いのとき、謙信は有名な「十三夜」の詩を作ったという。
毘沙門天の熱心な信者で、自らの旗印にも「毘」の文字を使った。
青年期までは曹洞宗の古刹、林泉寺で師の天室光育から禅を学び、上洛時には臨済宗大徳寺の宗九のもとに参禅し「宗心」という法名を受け、晩年には真言宗に傾倒し、高野山金剛峰寺の清胤から伝法潅頂を受け阿闍梨権大僧都の位階を受けている。
一般には「戦上手の内政下手」という印象があるが、実際には領内の物産流通の精密な統制管理を行い莫大な利益を上げていた。謙信が死去した時、春日山城には2万7140両の蓄えがあったという。上杉軍の行動を支える軍費の大半は通商によって得られており、頼山陽が美談として激賞した「敵に塩を送る」エピソードも、実際には軍費調達の必要上から甲斐・信濃の商人への塩販売を禁じなかったということに過ぎない(今川による塩の禁止を商機と見て、甲斐・信濃への塩販売を暗に奨励した可能性はある)。だが越後国人たちの離反には度々悩まされているように、謙信も信玄同様、国人衆の連合盟主という地位から脱することができなかった。
合戦では情報を得ることを重視し、軒猿(担猿)という忍者集団を擁していたと言われている。
吉川元春の使者・佐々木定経が謙信と対面したとき、「音に聞こえし大峰の五鬼、葛城高天の大天狗(謙信)にや」(「古老物語」)と謙信のことを大天狗扱いされるなど、「六尺近い偉丈夫」が有力説とされてきたが、「小柄」と表記されている文献もいくつか存在し、謙信の身長については諸説があり定かではないのが実情であった。しかし、近年の研究で遺品の甲冑の大きさなどから五尺二寸ほど(約156cm)であったことがわかっている。当時の男性の平均身長は159cm程度であったため、屈強な武将たちの中で考えると「小柄」という表現が正しいことがわかっている。
死去する1ヶ月前の2月、謙信は京都から画家を呼び寄せて自らの肖像画と後姿を描かせた。肖像画は現在でもよく知られている謙信像だが、後姿はなんと盃を描かせたという。このときのことを謙信は、「この盃すなわち我が後影なりといわれし」(古老物語)と語ったとされる。いかにも酒好きの謙信らしいといえる。
[編集] 逸話
常軌を逸した行動も取ったとされている。永禄12年(1559年)には上洛中、堺で無礼を働いた旅宿の主を手討ちにし、それに抗議した町人たちを追い払い、さらに町に放火したという。他にも厩橋城の城代・長尾謙忠を問答無用で斬殺し(殺害理由は謙忠に謀反の気があったらしい)、彼の家来も多数殺害したなどの、確証があるわけではないが彼の奇矯な性格の一面を示す逸話が残されている。
謙信は自分の行動は理由がなくても絶対に正当であると思っていたようだ。それゆえに手討ちだろうが私的殺人だろうが、彼に後悔や反省はなかったという。戦場においてもそれは同じで、銃弾が頭髪をかすめようとも、自分に当たるわけがないと信じて恐れもなく戦ったり、合戦前には自分の正当性を示す願文(合戦する際の理由で自身を正当化するのは秀吉や家康もしており当然ではあるが)を神仏に奉納したといわれる。
弘治2年(1556年)、突然国を出て出家騒動を起こしている。直接の原因は不明であるが、絶えず起こる家臣達同士の争い・離反に嫌気がさしたものともいわれ、謙信の奇矯な性格をよく表している逸話である。ただし結果として、混乱の激化を恐れた家臣団は謙信に「以後は謹んで臣従し二心を抱かず」との誓紙を差し出し、騒動は治まっており、これを最初から意図した、人心掌握のための狂言であるともいわれる。ただし謙信の性格からして、このような演技ができるとは考えにくいという反論もある。
永禄4年(1561年)、関東管領の就任式では忍城城主・成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけたという。諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を率いて帰城してしまった。原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で、武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。謙信はこの故事を知らなかったと思われるが、この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東進出の大きな足かせとなった。この事件は、謙信の激昂しやすく短慮な一面を伝える逸話として知られる。
宿敵・武田信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや(「日本外史」より)」と箸を落として号泣したという。後世の創作の可能性が高いが、「信玄亡き今こそ武田攻めの好機」と攻撃を薦める家臣の意見を「勝頼風情にそのような事をしても大人げない」と退けている。
信玄との生涯にわたる因縁からか、それが転じて二人の間には友情めいたものがあったのではないかと現在でも推測されることがあるが、実際のところ謙信は信玄をかなり嫌っていたようである。信玄が父親を追放したり、謀略を駆使して敵を貶めたりするのは謙信に言わせるところの道徳観に反しており(もっとも、戦国という時代を考えれば、信玄の行いは別にあってもおかしくないものだが)、謙信は信玄の行いに激怒したという。信玄との利益もなにも考えない数々の闘争も、謙信が純粋に信玄を嫌っていたからだという説もある。
しかし、毛嫌いしていた武田信玄が今川氏真によって塩止めを受けたときは(武田氏の領国甲斐と信濃は内陸のため、塩が取れない。これを見越した今川氏真の行動であった)、今川氏真の行いを「卑怯な行為」と批判し、「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろう」といって、武田信玄に塩を送ったという(「敵に塩を送る」という言葉はここから派生したといわれている)。
彼の部下は、謙信の食事を見ただけでもうすぐ戦に行くのかどうかが分かった、と言われている。これは、普段はあまり食べない謙信が、戦の前になるとかなりの量を食べたからだという。
生涯不犯(未婚)であり、子供は二人(景勝・景虎)とも養子だった。未婚の理由としては諸説があるが、男色説は原因として考えられにくい。この時代、戦国武将の男色は一般的で男色でも結婚し子を作っている武将はたくさん存在するからである。また上洛した際には京都の若い公家たちに誘われて山科の悪所に出かけており、女性嫌いでは決してない。謙信が若いときに敵将の上野・平井城主千葉采女の娘である伊勢姫と恋に落ち、家臣の柿崎景家ら猛烈な反対によって引き裂かれた後、娘は剃髪し出家したものの最終的に自害したため未婚を貫いたという逸話もある。また、半陰陽説や上杉謙信女性説、毘沙門天信者の妻帯禁制を堅く守っていたとする説なども存在するが、いずれも俗説の域を出ず、信憑性はきわめて低い。
大の酒好きであったが、他人と酒を酌み交わすような飲み方は好きではなく、ひとり縁側に出て、梅干だけを肴に手酌で飲んでいたと言われる。
死因について、前述の通り過度の飲酒と、つまみの梅干による塩分の取りすぎによる高血圧が原因の脳溢血と言われている(雪の中、厠で倒れたと史料にあることも、死因が脳溢血だと考えられる一因である)。他に、厠で用を足していた時に信長の派遣で雪隠隠れをしていた刺客に槍で刺されて殺害されたという説、婦人病(詳細は上杉謙信女性説に記載)で亡くなったとという説や、酒の飲みすぎからくる胃がん、食道がん説、織田信長にヒ素で毒殺されたなどの説もある。
謙信は織田信長と対抗できる最後の一人だったため、当時からその死は相当な衝撃を与えたようである。謙信の葬儀は3月15日に執り行なわれたが、このときのことを「北越軍談」はこう記している。
「家門・宿老・侍隊将・奉行・頭人・近習・外様、出棺の前後を打囲て行列の姿堂々たれ共、獅竜の部伍に事替り、衆皆哭慟の声を呑み、喪服の袂を絞りければ、街に蹲る男女老若共に泪止め兼ねたり。彼五丈原の営中、赤星(諸葛亮)落て蜀軍傾覆するが如く、春日山の郭内は云にや及ぶ、城下に来り集る将士、宛然航路に楫を失ひ、巨海の波に漂ふに斉し」
[編集] 評価
軍事に関しては、越後の龍や軍神と後世で評されており、卓越したものがあった。謙信は天才型で、迅速な用兵と駆け引きの的確さから生涯殆どの戦で勝利をおさめた、といった美化されたイメージも存在する。
謙信と他大名との鉄砲、弓、馬などの軍事編成の比はさほど差異はなく、戦術的にも大きな違いはない。だが、上杉軍は敵と敵のぶつかりあい、直接戦闘では圧倒的な強さを誇っていた。
政治面に関しては決して悪政を行ったというわけでも愚劣だったというわけでもなく、綿密に計画された金山運営で大きな利益をあげることに成功しており、また日本海側の海上交易の要衝としての利益も大きかった。これらのことから一概に「戦上手の内政下手」とは言えない(補足として、謙信の年貢の収納高は推定99万7000石、武田信玄は推定83万5000石で最盛期は100万石超。経済力では両者ほぼ互角である)。
謙信は手取川の戦いにて、織田家臣の柴田勝家などを相手に勝利した。
野戦での電光石火で神がかり的な采配に比べ、城攻めには失敗し撤退することもしばしばあった。(小田原城、臼井城、唐沢山城等)小田原城といえば、巨大な総構えを持つ城塞都市というイメージが強いが、当時は総構えどころか、三の丸も存在しない程度の規模であった。小田原包囲と同時に行っていた玉縄城などの支城攻略も失敗に終わっており、その後の北条の逆襲を招く結果となった。武田・北条両大名家と繰り広げた長期に渡る大規模な持久戦で露呈した脆さは致命的であり、直接の対陣での敗北は殆ど無いにも関わらず、関東においては最終的に上野の一部以外は殆ど失ってしまった。
第四次川中島の合戦の直前、10万を超える東国の大連合軍を率いて小田原城などに攻め込み、北条氏を追い詰めた。しかし、戦が予想以上に長期化したため、関東の諸豪族が撤退を強く主張、さらにこの隙をついて武田信玄が信濃にて軍事行動を起こしたため、撤退せざるをえなくなった。だが、これは小田原への進軍前、関東の諸大名の集結に時間がかかってしまったことにより、北条氏が防戦の準備を完全に整えてしまったことが大きく影響していた。一説によれば、武田信玄はこのことをさして「もしあの時時間を置かず、一気に小田原城を攻めていたら防御の十分でなかった城は陥落し、さしもの北条氏康も滅ぼされていたであろう。そうすれば甲斐の国も危なかった。」と述べたと伝わる。この直後、越後に帰還した謙信は信濃へ出兵、第四次川中島の合戦に臨む。また、足利将軍家を守るために三好・松永討伐を画策していた。もし、周辺諸国の緊張が収まり、大軍を率いての上洛が出来さえすれば成功の可能性はあったかもしれない。謙信を警戒した三好・松永から大量の貢物を送られている。謙信の電光石火・神出鬼没ぶりがうかがえる逸話だが、いずれも家臣団の反対で中止せざるをえなくなっている所に謙信の限界があるとの意見もある。
数々の戦いの多くが、村上義清、小笠原長時、上杉憲政らの旧領復権のための戦いであった。
義を重んじた謙信は私利私欲で兵を動かさなかったと言われる。戦国大名らしからぬその克己な様は、頼山陽などに激賞されており、現在でも謙信は戦国大名の中でも人気が高い。その一方、有名無実な関東管領職にこだわり続けた面から、形式に拘る形式主義者・実質よりも権威を重んじる権威主義者・室町幕府体制の復興を願う復古主義者、もしくは大義名分を盾にし自己正当化をすることに拘り(合戦する際の理由で自身を正当化するのは秀吉や家康もしており当然ではあるが)、自身を毘沙門天の転生と信じるなど、天才特有の自己愛の強さの証左である、との評価も一部にある。
関東管領職という室町幕府の役職を全うし、多くの利益を期待できない関東出陣を行うが(これについては、近年の研究で冬期に比較的温暖な関東に南下し、略奪を行う目的もあったという説もあるが、この時点で略奪を行う理由として上杉家の経済的困窮は見られない、また関東諸将は謙信関東侵攻時にはいったんは降伏するが、越後に上杉軍が引き返すとまた離反するということを繰り返している。生前に前もって後継者を決定しなかったことは、謙信の死後、御館の乱勃発の引き金となった。これは上杉家にとって大きな痛手となり、以後衰退の道を辿っている。謙信時代に獲得した北国(加賀・能登・越中)の大部分は、後に柴田勝家によって奪われる。
謙信の義理堅さ、約束事に対する姿勢は大変有名で、北条氏康は彼について「信玄と信長は表裏常なく、頼むに足りぬ人物だ。謙信だけは請け合ったら骨になっても義理を通す人物だ。それ故、肌着を分けて若い大将の守り袋にさせたい」と発言している。ちなみに謙信の関東出陣回数は17回であり、どれもことごとく徒労に終わるものだったが、これも謙信の義理堅さを証明している。また、武田信玄は死に臨んで跡継ぎの勝頼に「謙信は義理がたい武将なので、人に頼られれば決して見捨てる事はない。自分の死後は謙信を頼れ」と遺言したと甲陽軍鑑にはある。
[編集] 墓所・霊廟
謙信の遺骸は甲冑を着せて甕に納め、葬られたという。
遺骸は当初春日山城下の林泉寺に埋葬されたが、上杉家の転封に伴って、若松城、ついで米沢城内に改葬されたとされる。明治維新後は米沢藩の歴代藩主が眠る上杉家廟所(山形県米沢市)に再度、改葬された。春日山林泉寺(新潟県上越市)と高野山にも墓が残されている。
江戸時代に景勝の子孫が藩主となった米沢藩では、謙信は藩祖として崇敬を集めた。明治5年(1872年)に米沢城本丸跡に上杉神社(別格官幣社)が創建され、明治41年(1908年)9月9日、従二位が贈られた。
[編集] 家臣
[編集] 国人衆
鮎川清長
鮎川盛長
荒川長実
色部勝長
上野家成
大熊朝秀
小国頼久
柿崎景家
加地春綱
河田長親
北条高広
小島弥太郎
斎藤朝信
新発田長敦
下平修理亮
上条政繁
竹俣清綱
竹俣慶綱
千坂景親
直江景綱
中条藤資
中条景泰
本庄実乃
本庄繁長
山吉豊守
安田長秀
安田景元
安田顕元
吉江宗信
吉江景資
[編集] 上杉二十五将
上杉謙信に仕えた武将のうち、特に評価の高い25名を選出したもの。寛文9年(1669年)、幕府に提出された『上杉将士書上』に表記されている。
長尾政景
長尾景秋
宇佐美定滿(定行)
新津勝資(義門)
金津義舊
北条景広(長国)
色部長真(長実)
本庄慶秀(実乃)
本庄繁長
甘糟景継(清長)
杉原親憲(水原親憲)
斎藤朝信
安田能元(順易)
高梨頼包
柿崎景家
千坂景親(清風)
直江景綱(実綱)
竹股慶綱(朝綱)
岩井信能(経駿)
中条藤資
山本寺孝長
吉江定仲
志田義秀(義分)
大国頼久
加地春綱
[編集] 上杉四天王
柿崎景家
直江景綱
宇佐美定満
甘粕景持
[編集] 忍
加藤段蔵
[編集] 関連項目
越後国
上越市
上杉謙信女性説
石坂浩二(上杉謙信を題材とした天と地と (NHK大河ドラマ)で主演謙信役を演じる。1969年)
石山健次郎(太閤記 (NHK大河ドラマ)で謙信役を演じる。1965年)
柴田恭兵(武田信玄 (NHK大河ドラマ)で謙信役を演じる。1988年)
Gackt(風林火山 (NHK大河ドラマ)で謙信役を演じる。2007年)
天地人 (NHK大河ドラマ)(NHK大河ドラマ。2009年)
榎木孝明(上杉謙信を題材とした映画版天と地とで主演謙信役を演じる。)
石原裕次郎(山本勘助を題材とした風林火山 (映画)(東宝)で謙信役を演じる。1969年)
[編集] 小説
天と地と(海音寺潮五郎)
武神の階(津本陽)
戦国自衛隊(半村良)
[編集] 漫画
上杉謙信(岡村賢二)
雪の峠・剣の舞(岩明均)
[編集] ゲーム
戦国無双シリーズ(コーエー)
戦国BASARAシリーズ(カプコン)
信長の野望OnLine(コーエー)
[編集] ボードゲーム
謙信VS信玄 川中島の戦い、アークライト
武田盛衰記、ツクダホビー
武田騎馬軍団、エポック社
竜虎激突 信玄謙信 ゲームジャーナル第8号 、シミュレーションジャーナル
信州制圧 〜武田信玄の信州制圧〜 コマンド・マガジン第56号、国際通信社
先代:
長尾晴景 上杉氏(長尾氏)歴代当主
1548〜1578 次代:
上杉景勝
先代:
上杉憲政 関東管領
1561〜1578 次代:
消滅
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カテゴリ: 上杉氏 | 長尾氏 | 戦国大名 | 僧 (日本) | 還俗した人物 | 新潟県の歴史 | 新潟県出身の人物 | 1530年生 | 1578年没
タグ:Gackt 風林火山 上杉謙信
2007年8月26日(日)07:42
NHK大河「風林火山」(日曜後8・0)で上杉謙信を演じる歌手、Gackt(年齢非公表)が25日、新潟県上越市の春日山で行われた「謙信公祭」の出陣行列に初参加。白馬にまたがり、さっそうと現れた“本物の謙信”に観客からは大歓声が沸き上がった。
武者に扮した参加者約450人を引き連れ、大河と同じ甲冑(かっちゅう)姿で会場を練り歩くGacktに、沿道からは「カッコいい〜!」と黄色い声。Gacktは先月中旬の新潟県中越沖地震で被災した上越市の人々に、「地震の災いに見舞われし上越の地に上杉謙信まかりこした。みなのもの、勇気を出して立ち上がるのじゃ!」と声を張り上げ、エールを送った。
上杉謙信
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上杉謙信/長尾景虎 凡例
時代 戦国時代
生誕 享禄3年1月21日(1530年2月18日)
死没 天正6年3月13日(1578年4月19日)
改名 虎千代(幼名)。長尾景虎→上杉政虎→輝虎→謙信
別名 平三、宗心
戒名 不識院殿真光謙信
墓所 上杉家廟所、春日山林泉寺、高野山
官位 従五位下、弾正少弼、贈従二位
幕府 室町幕府越後守護代→関東管領
主君 上杉定実(義伯父)→足利義輝
氏族 長尾氏(桓武平氏)→上杉氏(藤原氏)
父母 父:長尾為景、母:虎御前
養父:長尾晴景のち上杉憲政
兄弟 長尾晴景、長尾景康、長尾景房
仙桃院(長尾政景室)、長尾景虎(上杉謙信)
義兄弟:上杉憲藤、上杉憲重、上杉憲景
子 養子:景虎、景勝、上条政繁、山浦国清
織田氏(文書上でのやりとりのみ)
上杉神社内にある上杉謙信像
春日山城上杉 謙信/長尾 景虎(うえすぎ けんしん/ながお かげとら、享禄3年1月21日(1530年2月18日) - 天正6年3月13日(1578年4月19日))は、戦国時代から天正時代の武将・大名。
越後国の守護代を務めた長尾氏に生まれ、後に主君上杉定実の義甥となる。兄の晴景の養子となって長尾氏の家督を継ぎ、上杉憲政から上杉姓と関東管領職を譲られる。周辺の武田晴信(信玄)、北条氏康、織田信長らと合戦を繰り広げた。
自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる。
後世、越後の虎とも越後の龍とも呼ばれる。
室町幕府最後の関東管領でもある。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 家督相続
1.2 川中島の戦いと関東管領補任
1.3 武田信玄・北条氏康との戦い
1.4 越中・関東出兵
1.5 織田信長との戦い
1.6 最期
2 辞世の句
3 人物
4 逸話
5 評価
6 墓所・霊廟
7 家臣
7.1 国人衆
7.2 上杉二十五将
7.3 上杉四天王
7.4 忍
8 関連項目
8.1 小説
8.2 漫画
8.3 ゲーム
8.4 ボードゲーム
[編集] 生涯
[編集] 家督相続
享禄3年(1530年)1月21日、越後守護代長尾為景の四男として春日山城に生まれる。 天文5年(1536年、同11年(1542年)とも)に父の為景が病死したため、家督は兄の長尾晴景が継ぎ、虎千代は城下の林泉寺に入門して住職の天室光育の教えを受ける。天文12年(1543年)8月15日に元服して長尾景虎と名乗り、中越の長尾家領統治のため栃尾城に入る。
当時、越後では守護上杉定実が伊達稙宗の子を養子に迎える件で内乱が起こっており、景虎は元服した同年、病弱な兄の晴景を見て反乱を起こした越後の豪族を討伐することで初陣を飾った。天文15年(1546年)には黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こすと、景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として黒田氏を滅ぼした。
天文17年(1548年)、定実の調停のもと、12月30日、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退する。景虎は長尾氏の本拠である春日山城に入り、19歳で家督を相続し、越後守護代となる。2年後の天文19年(1550年)には、定実が子供を遺さずに死去したため、将軍・足利義輝は景虎の越後国主の地位を認めた。衣料の原料となる青苧を栽培し、日本海ルートで全国に広め、財源とした。
[編集] 川中島の戦いと関東管領補任
天文19年(1550年)、一族の坂戸城主・長尾政景が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こした。しかし景虎は、翌、天文20年(1551年)に鎮圧している。この頃、北条氏康による攻勢を受けていた上野平井城に拠る関東管領の上杉憲政が、越後に対して救援を求めている。景虎はただちに出兵して北条軍を破り、憲政を平井城へ戻した。越後の隣国・上野へ力を伸ばす北条氏は、越後の安全を確保する上でも脅威だったためである。
天文21年(1552年)1月、上杉憲政を越後に迎える。4月23日、従五位下弾正少弼に叙任する。天文22年(1553年)9月、上洛して後奈良天皇や室町幕府第13代将軍・足利義輝に謁見している。
同年、甲斐の武田晴信の信濃侵攻によって領地を追われた村上義清・高梨政頼(景虎の叔父)らの信濃国人が領地復権を望んで景虎のもとへ逃亡してくると、8月にはこれに応じて信濃に出兵し、川中島(長野市南郊)で武田信玄と対峙する(第1次川中島の戦い)。天文23年(1554年)、家臣の北条高広が武田信玄と通じて謀反を起こしたが、天文24年(1555年)には自らが出陣してこれを鎮圧した。4月、信玄と川中島で再び対峙したが(第2次川中島の戦い)、決着はつかず対陣5ヶ月に及び、最終的には駿河の今川義元の仲介のもとに和睦して撤退した。
ところが弘治2年(1556年)6月、出家すると宣言して高野山(一説に比叡山)に向かう。この頃、武田信玄との抗争や、家臣である長尾政景、北条高広、大熊朝秀らの反乱で心身が疲れきっていたとも言われているが、天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念した。弘治3年(1557年)4月、川中島に出陣する(第三次川中島の戦い)。しかし武田軍とは睨み合いに終始し、さらに越中で一向一揆が起こったため、撤退を余儀なくされた。永禄2年(1559年)4月、再度上洛して正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁する。このとき、義輝から管領並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。この頃、義輝は幕臣大舘晴光を派遣して、景虎・信玄・氏康の三者が和睦して三好長慶の勢力を駆逐するために協力するよう説得したが、三者の考え方の溝は大きく実現しなかった。
永禄3年(1560年)3月、越中に出陣し、神保長職を破って椎名康胤を援けた。5月、関東に出陣して厩橋城で越年する。武蔵松山城を攻め落とし、永禄4年(1561年)3月に関東管領上杉憲政を擁して長野業正、小山秀綱、小田氏治、那須資胤、佐竹義重、太田資正、三田綱秀、成田長泰ら旧上杉家家臣団10万の大軍で小田原城を包囲する。しかし落とすことはできず、1ヶ月後に鎌倉に退去した。このとき、上杉憲政の要請もあって鶴岡八幡宮において閏3月16日、山内上杉氏の家督と関東管領職を相続、名を上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改めた。
もともと上杉家は足利宗家の外戚として名門の地位にあり、関東管領職はその縁で代々任じられてきた役職であった。長尾家は上杉家の家臣筋であり、しかも上杉家の本姓が藤原氏なのに対して長尾家は桓武平氏であった。異姓(長尾氏の祖先である平良文の母は藤原氏ではあるが)にして家臣筋の長尾景虎がなぜ上杉氏の名跡を継承するに至ったのか。
かねてから上杉家に養子を招くことを望んでいた上杉憲政が、上杉家から養子を出したことのある佐竹家からの養子を断られ、苦悩の末に越後の実力者である長尾景虎に継がせたと言われる。藩翰譜によると、政虎自身が上杉頼成の男系子孫であるという記述がある。萩原家譜案にも、上杉頼成の男子が長尾氏へ入嗣した旨が記されている。室町時代前期の長尾氏の系図は混乱していて諸説あるが、政虎は上杉家の傍系であったという説も有力である。
帰国後の永禄4年(1561年)8月、1万3000の兵を率いて川中島に出陣する(第4次川中島の戦い)。このとき、武田軍と大決戦に及び、武田軍の武田信繁、山本勘助らを討ち取ったが、上杉軍の死傷者も甚大で、結局痛み分けに終わった。11月、再び関東に出て信玄・氏康と戦う。しかし川中島における軍勢の被害が甚大であり積極的に戦うことができず、成田長泰や佐野昌綱にとどまらず武蔵国の同族上杉憲盛までもが北条方に降る。謙信は上野・武蔵・常陸・下野・下総などで転戦したが、関東における領土は主に東上野にとどまった。12月、将軍義輝の一字を賜り、諱を輝虎(てるとら)と改める。
[編集] 武田信玄・北条氏康との戦い
第四次川中島の戦い武田信玄と北信濃をめぐって川中島の戦いを行うが決着は着かず、結局のところ信濃の北辺の一部を掌握したのみで、村上氏、高梨氏らの旧領を回復することはできなかった。永禄5年(1562年)7月と9月、越中に出陣して椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させた。永禄7年(1564年)にも信玄と川中島で再び対峙した(第5次川中島の戦い)。しかし60日に及ぶ対峙の末に撤退し、決着は着かなかった。
永禄11年(1568年)、越中の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中を制圧するために松倉城・守山城を攻撃したが、5月に信玄と通じた重臣の本庄繁長の謀反のため、越後に戻った。11月、繁長の謀反を鎮圧。12月、武田と断交した今川氏真に救援を懇願される。永禄12年(1569年)には蘆名盛氏の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・本庄顕長を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた出羽の大宝寺義増も謙信に降伏した。
永禄12年(1569年)3月、武田信玄を牽制するため関東管領である輝虎にとっては宿敵である北条氏康と同盟する(越相同盟)。元亀元年(1570年)、氏康の7男である北条三郎氏秀を養子として迎えた輝虎は、三郎のことを大いに気に入って上杉景虎という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇したという。12月には法号「謙信」を称した。
[編集] 越中・関東出兵
元亀2年(1571年)、北条氏康が死去し、後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再び和睦したため、その後両軍と利根川を挟み対陣した。8月、北国に矛先を転じ、越中の一向一揆勢力らと戦い富山城を奪う。11月、大規模に動員した信玄と交戦状態に入った、織田信長の同盟の申し出を受ける。その後越中に出陣したが、信玄に通じて反乱を起こした一向一揆に悩まされ、年末まで一向一揆と戦った末に、これを制圧した。
元亀4年(1573年)、宿敵・武田信玄が病没して武田氏の脅威が薄らぎ、越中の過半を制圧。同年に北条氏政が上野に侵攻、これに対するため天正2年(1574年)、関東に出陣して金山城・騎西城・忍城など関東の諸城を相次いで攻めた。同年12月19日、剃髪して法印大和尚に任ぜられる。天正3年(1575年)1月11日、養子の喜平次顕景の名を景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲った。
[編集] 織田信長との戦い
天正4年(1576年)2月、信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺顕如と講和する。このとき、武田勝頼とも和睦して信長との同盟を破棄し、新たに謙信を盟主とする反信長包囲網を築き上げたのである。
天正4年(1576年)9月、越中に侵攻して一向一揆支配下の富山城、増山城を落とした。次いで椎名康胤の蓮沼城を陥落させ康胤を討ち取り、越中を平定した。11月、能登に進み畠山氏の居城・七尾城を囲んだ(七尾城の戦い)。しかし七尾城は堅城であり、攻めあぐんで越年する。天正5年(1577年)、春日山に一時撤退した。その間に畠山軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は落とされたが、閏7月、再び能登に侵攻し、七尾城を包囲する。このとき、城内で疫病が流行、厭戦気分が蔓延し、9月15日に遊佐続光らが謙信と通じて反乱を起こした。信長と通じていた長続連らは殺され、七尾城は落城し、能登も完全に上杉家の支配下に入った。
一方、長続連の援軍要請を受けていた織田氏は、柴田勝家らの先発隊3万、信長率いる本隊1万8000が加賀に向かっていた。謙信はこれを迎え撃つため、9月17日に末森城を落とし、9月18日には松波城を攻め落とした。9月23日、柴田勝家率いる織田軍は、手取川を渡河したところでようやく七尾城の陥落を知った。慌てた勝家は撤退命令を出したが、謙信は渡河に手間取る織田軍を追撃して大勝したとされる(手取川の戦い)。
[編集] 最期
天正5年(1577年)12月18日、謙信は春日山城に帰還し、12月23日には次なる遠征に向けての大動員令を発した。天正6年(1578年)3月15日に遠征を開始する予定だったらしい。しかしその6日前である3月9日、遠征の準備中に春日山城で倒れ、天正6年(1578年)3月13日、急死した。享年49。
未遂に終わった遠征では上洛して織田信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたとも言われているが、詳細は不明(近年の研究では関東侵攻説が有力になりつつある)。『その時歴史が動いた』(NHK)では、「関東侵攻後、信長を打倒し京へ上洛」が有力説とし、放映された(2007年4月4日放送)。
[編集] 辞世の句
「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」
「四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒」(「嗚呼 柳緑 花紅」と続く史料もある)
[編集] 人物
生まれつきのカリスマ性を持ち、兄から呼びもどされて元服すると長尾家家臣だけでなく、豪族達の心もつかんだとされている。
自らを毘沙門天の化身と称したり天罰と信じて戦を行なう、短気であるなど、エキセントリックで苛烈な一面がある一方で、よく涙を流す、自信喪失したり情緒不安定に陥るなど、戦国大名らしからぬほど非常に繊細でナイーブな面もあったようだ。また、養子の上杉景勝に頻繁に手紙を送ったり呼び寄せたり(景勝は正式に養子になる以前は父・政景の居城である上田城にいたことが多かった)する子煩悩な一面もある。
戦略家・戦術家としてだけではなく、和歌に通じ、達筆でもあり、近衛稙家から和歌の奥義を伝授されるなど、公家との交流も深い文化人でもあった。特に源氏物語を始めとする恋愛物を好んで読んでおり、上洛した際に開催した歌会でも見事な雅歌(恋歌)を読み、参加者全員を驚かせたと言う。琵琶を奏でる趣味もあった。
七尾城の戦いのとき、謙信は有名な「十三夜」の詩を作ったという。
毘沙門天の熱心な信者で、自らの旗印にも「毘」の文字を使った。
青年期までは曹洞宗の古刹、林泉寺で師の天室光育から禅を学び、上洛時には臨済宗大徳寺の宗九のもとに参禅し「宗心」という法名を受け、晩年には真言宗に傾倒し、高野山金剛峰寺の清胤から伝法潅頂を受け阿闍梨権大僧都の位階を受けている。
一般には「戦上手の内政下手」という印象があるが、実際には領内の物産流通の精密な統制管理を行い莫大な利益を上げていた。謙信が死去した時、春日山城には2万7140両の蓄えがあったという。上杉軍の行動を支える軍費の大半は通商によって得られており、頼山陽が美談として激賞した「敵に塩を送る」エピソードも、実際には軍費調達の必要上から甲斐・信濃の商人への塩販売を禁じなかったということに過ぎない(今川による塩の禁止を商機と見て、甲斐・信濃への塩販売を暗に奨励した可能性はある)。だが越後国人たちの離反には度々悩まされているように、謙信も信玄同様、国人衆の連合盟主という地位から脱することができなかった。
合戦では情報を得ることを重視し、軒猿(担猿)という忍者集団を擁していたと言われている。
吉川元春の使者・佐々木定経が謙信と対面したとき、「音に聞こえし大峰の五鬼、葛城高天の大天狗(謙信)にや」(「古老物語」)と謙信のことを大天狗扱いされるなど、「六尺近い偉丈夫」が有力説とされてきたが、「小柄」と表記されている文献もいくつか存在し、謙信の身長については諸説があり定かではないのが実情であった。しかし、近年の研究で遺品の甲冑の大きさなどから五尺二寸ほど(約156cm)であったことがわかっている。当時の男性の平均身長は159cm程度であったため、屈強な武将たちの中で考えると「小柄」という表現が正しいことがわかっている。
死去する1ヶ月前の2月、謙信は京都から画家を呼び寄せて自らの肖像画と後姿を描かせた。肖像画は現在でもよく知られている謙信像だが、後姿はなんと盃を描かせたという。このときのことを謙信は、「この盃すなわち我が後影なりといわれし」(古老物語)と語ったとされる。いかにも酒好きの謙信らしいといえる。
[編集] 逸話
常軌を逸した行動も取ったとされている。永禄12年(1559年)には上洛中、堺で無礼を働いた旅宿の主を手討ちにし、それに抗議した町人たちを追い払い、さらに町に放火したという。他にも厩橋城の城代・長尾謙忠を問答無用で斬殺し(殺害理由は謙忠に謀反の気があったらしい)、彼の家来も多数殺害したなどの、確証があるわけではないが彼の奇矯な性格の一面を示す逸話が残されている。
謙信は自分の行動は理由がなくても絶対に正当であると思っていたようだ。それゆえに手討ちだろうが私的殺人だろうが、彼に後悔や反省はなかったという。戦場においてもそれは同じで、銃弾が頭髪をかすめようとも、自分に当たるわけがないと信じて恐れもなく戦ったり、合戦前には自分の正当性を示す願文(合戦する際の理由で自身を正当化するのは秀吉や家康もしており当然ではあるが)を神仏に奉納したといわれる。
弘治2年(1556年)、突然国を出て出家騒動を起こしている。直接の原因は不明であるが、絶えず起こる家臣達同士の争い・離反に嫌気がさしたものともいわれ、謙信の奇矯な性格をよく表している逸話である。ただし結果として、混乱の激化を恐れた家臣団は謙信に「以後は謹んで臣従し二心を抱かず」との誓紙を差し出し、騒動は治まっており、これを最初から意図した、人心掌握のための狂言であるともいわれる。ただし謙信の性格からして、このような演技ができるとは考えにくいという反論もある。
永禄4年(1561年)、関東管領の就任式では忍城城主・成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけたという。諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を率いて帰城してしまった。原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で、武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。謙信はこの故事を知らなかったと思われるが、この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東進出の大きな足かせとなった。この事件は、謙信の激昂しやすく短慮な一面を伝える逸話として知られる。
宿敵・武田信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや(「日本外史」より)」と箸を落として号泣したという。後世の創作の可能性が高いが、「信玄亡き今こそ武田攻めの好機」と攻撃を薦める家臣の意見を「勝頼風情にそのような事をしても大人げない」と退けている。
信玄との生涯にわたる因縁からか、それが転じて二人の間には友情めいたものがあったのではないかと現在でも推測されることがあるが、実際のところ謙信は信玄をかなり嫌っていたようである。信玄が父親を追放したり、謀略を駆使して敵を貶めたりするのは謙信に言わせるところの道徳観に反しており(もっとも、戦国という時代を考えれば、信玄の行いは別にあってもおかしくないものだが)、謙信は信玄の行いに激怒したという。信玄との利益もなにも考えない数々の闘争も、謙信が純粋に信玄を嫌っていたからだという説もある。
しかし、毛嫌いしていた武田信玄が今川氏真によって塩止めを受けたときは(武田氏の領国甲斐と信濃は内陸のため、塩が取れない。これを見越した今川氏真の行動であった)、今川氏真の行いを「卑怯な行為」と批判し、「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろう」といって、武田信玄に塩を送ったという(「敵に塩を送る」という言葉はここから派生したといわれている)。
彼の部下は、謙信の食事を見ただけでもうすぐ戦に行くのかどうかが分かった、と言われている。これは、普段はあまり食べない謙信が、戦の前になるとかなりの量を食べたからだという。
生涯不犯(未婚)であり、子供は二人(景勝・景虎)とも養子だった。未婚の理由としては諸説があるが、男色説は原因として考えられにくい。この時代、戦国武将の男色は一般的で男色でも結婚し子を作っている武将はたくさん存在するからである。また上洛した際には京都の若い公家たちに誘われて山科の悪所に出かけており、女性嫌いでは決してない。謙信が若いときに敵将の上野・平井城主千葉采女の娘である伊勢姫と恋に落ち、家臣の柿崎景家ら猛烈な反対によって引き裂かれた後、娘は剃髪し出家したものの最終的に自害したため未婚を貫いたという逸話もある。また、半陰陽説や上杉謙信女性説、毘沙門天信者の妻帯禁制を堅く守っていたとする説なども存在するが、いずれも俗説の域を出ず、信憑性はきわめて低い。
大の酒好きであったが、他人と酒を酌み交わすような飲み方は好きではなく、ひとり縁側に出て、梅干だけを肴に手酌で飲んでいたと言われる。
死因について、前述の通り過度の飲酒と、つまみの梅干による塩分の取りすぎによる高血圧が原因の脳溢血と言われている(雪の中、厠で倒れたと史料にあることも、死因が脳溢血だと考えられる一因である)。他に、厠で用を足していた時に信長の派遣で雪隠隠れをしていた刺客に槍で刺されて殺害されたという説、婦人病(詳細は上杉謙信女性説に記載)で亡くなったとという説や、酒の飲みすぎからくる胃がん、食道がん説、織田信長にヒ素で毒殺されたなどの説もある。
謙信は織田信長と対抗できる最後の一人だったため、当時からその死は相当な衝撃を与えたようである。謙信の葬儀は3月15日に執り行なわれたが、このときのことを「北越軍談」はこう記している。
「家門・宿老・侍隊将・奉行・頭人・近習・外様、出棺の前後を打囲て行列の姿堂々たれ共、獅竜の部伍に事替り、衆皆哭慟の声を呑み、喪服の袂を絞りければ、街に蹲る男女老若共に泪止め兼ねたり。彼五丈原の営中、赤星(諸葛亮)落て蜀軍傾覆するが如く、春日山の郭内は云にや及ぶ、城下に来り集る将士、宛然航路に楫を失ひ、巨海の波に漂ふに斉し」
[編集] 評価
軍事に関しては、越後の龍や軍神と後世で評されており、卓越したものがあった。謙信は天才型で、迅速な用兵と駆け引きの的確さから生涯殆どの戦で勝利をおさめた、といった美化されたイメージも存在する。
謙信と他大名との鉄砲、弓、馬などの軍事編成の比はさほど差異はなく、戦術的にも大きな違いはない。だが、上杉軍は敵と敵のぶつかりあい、直接戦闘では圧倒的な強さを誇っていた。
政治面に関しては決して悪政を行ったというわけでも愚劣だったというわけでもなく、綿密に計画された金山運営で大きな利益をあげることに成功しており、また日本海側の海上交易の要衝としての利益も大きかった。これらのことから一概に「戦上手の内政下手」とは言えない(補足として、謙信の年貢の収納高は推定99万7000石、武田信玄は推定83万5000石で最盛期は100万石超。経済力では両者ほぼ互角である)。
謙信は手取川の戦いにて、織田家臣の柴田勝家などを相手に勝利した。
野戦での電光石火で神がかり的な采配に比べ、城攻めには失敗し撤退することもしばしばあった。(小田原城、臼井城、唐沢山城等)小田原城といえば、巨大な総構えを持つ城塞都市というイメージが強いが、当時は総構えどころか、三の丸も存在しない程度の規模であった。小田原包囲と同時に行っていた玉縄城などの支城攻略も失敗に終わっており、その後の北条の逆襲を招く結果となった。武田・北条両大名家と繰り広げた長期に渡る大規模な持久戦で露呈した脆さは致命的であり、直接の対陣での敗北は殆ど無いにも関わらず、関東においては最終的に上野の一部以外は殆ど失ってしまった。
第四次川中島の合戦の直前、10万を超える東国の大連合軍を率いて小田原城などに攻め込み、北条氏を追い詰めた。しかし、戦が予想以上に長期化したため、関東の諸豪族が撤退を強く主張、さらにこの隙をついて武田信玄が信濃にて軍事行動を起こしたため、撤退せざるをえなくなった。だが、これは小田原への進軍前、関東の諸大名の集結に時間がかかってしまったことにより、北条氏が防戦の準備を完全に整えてしまったことが大きく影響していた。一説によれば、武田信玄はこのことをさして「もしあの時時間を置かず、一気に小田原城を攻めていたら防御の十分でなかった城は陥落し、さしもの北条氏康も滅ぼされていたであろう。そうすれば甲斐の国も危なかった。」と述べたと伝わる。この直後、越後に帰還した謙信は信濃へ出兵、第四次川中島の合戦に臨む。また、足利将軍家を守るために三好・松永討伐を画策していた。もし、周辺諸国の緊張が収まり、大軍を率いての上洛が出来さえすれば成功の可能性はあったかもしれない。謙信を警戒した三好・松永から大量の貢物を送られている。謙信の電光石火・神出鬼没ぶりがうかがえる逸話だが、いずれも家臣団の反対で中止せざるをえなくなっている所に謙信の限界があるとの意見もある。
数々の戦いの多くが、村上義清、小笠原長時、上杉憲政らの旧領復権のための戦いであった。
義を重んじた謙信は私利私欲で兵を動かさなかったと言われる。戦国大名らしからぬその克己な様は、頼山陽などに激賞されており、現在でも謙信は戦国大名の中でも人気が高い。その一方、有名無実な関東管領職にこだわり続けた面から、形式に拘る形式主義者・実質よりも権威を重んじる権威主義者・室町幕府体制の復興を願う復古主義者、もしくは大義名分を盾にし自己正当化をすることに拘り(合戦する際の理由で自身を正当化するのは秀吉や家康もしており当然ではあるが)、自身を毘沙門天の転生と信じるなど、天才特有の自己愛の強さの証左である、との評価も一部にある。
関東管領職という室町幕府の役職を全うし、多くの利益を期待できない関東出陣を行うが(これについては、近年の研究で冬期に比較的温暖な関東に南下し、略奪を行う目的もあったという説もあるが、この時点で略奪を行う理由として上杉家の経済的困窮は見られない、また関東諸将は謙信関東侵攻時にはいったんは降伏するが、越後に上杉軍が引き返すとまた離反するということを繰り返している。生前に前もって後継者を決定しなかったことは、謙信の死後、御館の乱勃発の引き金となった。これは上杉家にとって大きな痛手となり、以後衰退の道を辿っている。謙信時代に獲得した北国(加賀・能登・越中)の大部分は、後に柴田勝家によって奪われる。
謙信の義理堅さ、約束事に対する姿勢は大変有名で、北条氏康は彼について「信玄と信長は表裏常なく、頼むに足りぬ人物だ。謙信だけは請け合ったら骨になっても義理を通す人物だ。それ故、肌着を分けて若い大将の守り袋にさせたい」と発言している。ちなみに謙信の関東出陣回数は17回であり、どれもことごとく徒労に終わるものだったが、これも謙信の義理堅さを証明している。また、武田信玄は死に臨んで跡継ぎの勝頼に「謙信は義理がたい武将なので、人に頼られれば決して見捨てる事はない。自分の死後は謙信を頼れ」と遺言したと甲陽軍鑑にはある。
[編集] 墓所・霊廟
謙信の遺骸は甲冑を着せて甕に納め、葬られたという。
遺骸は当初春日山城下の林泉寺に埋葬されたが、上杉家の転封に伴って、若松城、ついで米沢城内に改葬されたとされる。明治維新後は米沢藩の歴代藩主が眠る上杉家廟所(山形県米沢市)に再度、改葬された。春日山林泉寺(新潟県上越市)と高野山にも墓が残されている。
江戸時代に景勝の子孫が藩主となった米沢藩では、謙信は藩祖として崇敬を集めた。明治5年(1872年)に米沢城本丸跡に上杉神社(別格官幣社)が創建され、明治41年(1908年)9月9日、従二位が贈られた。
[編集] 家臣
[編集] 国人衆
鮎川清長
鮎川盛長
荒川長実
色部勝長
上野家成
大熊朝秀
小国頼久
柿崎景家
加地春綱
河田長親
北条高広
小島弥太郎
斎藤朝信
新発田長敦
下平修理亮
上条政繁
竹俣清綱
竹俣慶綱
千坂景親
直江景綱
中条藤資
中条景泰
本庄実乃
本庄繁長
山吉豊守
安田長秀
安田景元
安田顕元
吉江宗信
吉江景資
[編集] 上杉二十五将
上杉謙信に仕えた武将のうち、特に評価の高い25名を選出したもの。寛文9年(1669年)、幕府に提出された『上杉将士書上』に表記されている。
長尾政景
長尾景秋
宇佐美定滿(定行)
新津勝資(義門)
金津義舊
北条景広(長国)
色部長真(長実)
本庄慶秀(実乃)
本庄繁長
甘糟景継(清長)
杉原親憲(水原親憲)
斎藤朝信
安田能元(順易)
高梨頼包
柿崎景家
千坂景親(清風)
直江景綱(実綱)
竹股慶綱(朝綱)
岩井信能(経駿)
中条藤資
山本寺孝長
吉江定仲
志田義秀(義分)
大国頼久
加地春綱
[編集] 上杉四天王
柿崎景家
直江景綱
宇佐美定満
甘粕景持
[編集] 忍
加藤段蔵
[編集] 関連項目
越後国
上越市
上杉謙信女性説
石坂浩二(上杉謙信を題材とした天と地と (NHK大河ドラマ)で主演謙信役を演じる。1969年)
石山健次郎(太閤記 (NHK大河ドラマ)で謙信役を演じる。1965年)
柴田恭兵(武田信玄 (NHK大河ドラマ)で謙信役を演じる。1988年)
Gackt(風林火山 (NHK大河ドラマ)で謙信役を演じる。2007年)
天地人 (NHK大河ドラマ)(NHK大河ドラマ。2009年)
榎木孝明(上杉謙信を題材とした映画版天と地とで主演謙信役を演じる。)
石原裕次郎(山本勘助を題材とした風林火山 (映画)(東宝)で謙信役を演じる。1969年)
[編集] 小説
天と地と(海音寺潮五郎)
武神の階(津本陽)
戦国自衛隊(半村良)
[編集] 漫画
上杉謙信(岡村賢二)
雪の峠・剣の舞(岩明均)
[編集] ゲーム
戦国無双シリーズ(コーエー)
戦国BASARAシリーズ(カプコン)
信長の野望OnLine(コーエー)
[編集] ボードゲーム
謙信VS信玄 川中島の戦い、アークライト
武田盛衰記、ツクダホビー
武田騎馬軍団、エポック社
竜虎激突 信玄謙信 ゲームジャーナル第8号 、シミュレーションジャーナル
信州制圧 〜武田信玄の信州制圧〜 コマンド・マガジン第56号、国際通信社
先代:
長尾晴景 上杉氏(長尾氏)歴代当主
1548〜1578 次代:
上杉景勝
先代:
上杉憲政 関東管領
1561〜1578 次代:
消滅
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